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これが、北園高校の頭髪検査に反対する理由です

わが母校の校風のひとつである「自由な風土」が、脅かされようとしている。

自由な校風で知られる都立北園高校で、頭髪検査が始まったとの噂を耳にした。派手な頭髪の高校生を見て、自由を履き違えていると感じる向きもあったかもしれない。そういう人たちから見れば、頭髪検査が始まる、すなわち髪染めができなくなるということは、取るに足らないニュースだろう。しかし、この問題の本質は、頭髪検査が始まったことではなく、それによって「自由の北園」の一番の特色であった、学生たちの「考える機会」を奪ったことが何よりの問題なのである。高校生という多感な時期に、あえて自由という厳しい環境を提供していた城北の学園はいま、ただの進学校に成り下がろうとしている。

 

頭髪検査の開始

ある筋から、僕の母校である都立北園高校で、頭髪検査が始まったという噂を耳にした。

僕が入学した当時は、頭髪検査などなく、服装ももちろん自由。バイトも申告不要で、まるで大学みたいな高校。中学生の時に北園を訪問した時は、そんな自由な校風に心底憧れたものだ。

そんな自由な校風として知られた北園高校で頭髪検査が始まったという噂が本当なら、とても残念に思うと同時に、北園の一番の特色である自由が奪われかねない学校の決定に、深い憂慮を表明する。

自由について考えることができた北園

前述の通り、僕が入学した当時は頭髪を含め校則という校則が存在せず、学生は法令と良識(つまりコンプライアンス)に則って各々の学生生活を送っていたように記憶している。本当に髪の毛真っきんきんの人もいたし、耳にでかいピアスをあけている人もいたし、電動チャリで通学する子もいた。LGBTも普通にカミングアウトしていた。高校生なのに。

でも、学生に共通して言えたのは、皆学業を一番大切にしていたことだ。髪を染めるのも自由、バイトをするのも自由、だけど、勉強ができなければ全部自分のせい。こういう厳しさが北園にはあった。実際に単位を落とした人を何人も見てきた。高校生なのに。

自由とは、自分の髪の色を自由に決められるということではない。自分がこれからする行動ひとつ一つについて、自らが責任を持つということである。髪を染めれば、不良から絡まれるかもしれない。学業の不振を髪のせいにされるかもしれない。警察のしつこい職質に悩まされるかもしれない。高校時代に髪を染めていた友人は、こういった全ての責任を負って、自らの選択で髪を染めていたのだ。

学生たちの考える機会が奪われた

派手な頭髪を目にして、自由を履き違えていると感じる向きもあったかもしれない。しかし、そう感じる彼らにとって、自由とは髪の色を自分で決定することであると勘違いしており、自由を軽視していると言わざるを得ない。

本来、自由とはとても尊く、とても厳しいものである。高校生に、自分の責任において全ての物事を決定させるということはとても酷なものなのかもしれない。しかし、そういう風土の中で育った彼らは、あらゆることを人のせいにしない、健全で強い人間になっていると思う。実際、僕の旧友は実に多様に、あらゆるフィールドで活躍しているが、とても生き生きしていて、人のせいにしている姿を見たことがない。自分の決定に、責任と自信を持っているからだ。

頭髪検査の問題は、頭髪検査が始まったことが問題なのではなく、この措置によって、北園の学生たちの「考える機会」を奪ったことが本質的な問題なのである。

髪染め禁止というルールのもとでは、学生たちはやがてなぜ髪を染めてはいけないのか考えなくなる。髪を染めるのはルールによって禁止されているので、髪を染めるとどんなメリットとリスクがあるのか、考えなくなる。そして、何か不都合があった時に、髪染め禁止というルールのせいにしてしまう恐れがある。

これからの社会に必要なのは、ルール通りに動ける人間ではなく、ルールブレイカーたる人間である。ルール通りきっちり仕事をするのは、言わずもがなAIや機械の方が得意だ。自由な風土の中で、しっかり社会を見つめ、世の中に何が必要か鋭く見極められる人が求められているというのに、髪染め禁止の決定を下した学校の判断は明らかに時代に逆行している。それがかの「自由の北園」で起こったことだから、自体はなおさら深刻である。

北園はもはや、ただの進学校なのか

北園高校とは、高校生という多感な時期に、あえてノールールという厳しい環境を提供し、自らの行動について一生懸命考えて決断を下すという経験ができる唯一の学校であった。しかし、頭髪検査が始まった今、その貴重な経験の機会が北園生から奪われようとしている。

この件について、北園高校の学生たちはもっと声を大にして主張していいと個人的には思う。日本人は歴史的に、自由を天下から与えられる形で享受してきたので、自由が奪われる感覚に疎い。だが、アメリカの歴史を見れば明らかなように、自由とは命をかけて守るものであり、気をぬくと奪われかねないものである。だから、もっと自由に対する感度を上げて、それが奪われそうになったら戦わないといけないのだ。

北園高校はいま、そういう自由の岐路に立っている。この件に対して行動を起こせるのは、残念ながら僕ではなく、今在学している北園高校の諸君なのです。

 

(おことわり)

学校教育法では、中等教育を受けている者(高等学校に在籍する者)を「生徒」と定義していますが、自由な校風という厳しい環境の中で切磋琢磨する生徒諸君に敬意を表し、あえて「学生」と表記いたしました。

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